寿能城跡 – 岩槻城の付城として築城され、秀吉の小田原征伐で落城

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寿能城は、扇谷上杉氏の家宰 太田道灌の末裔である潮田資忠が築城し居城とした城郭です。
築城は1560年頃で、大宮北高校から大宮第二公園まで広がる広大な城域でした。
現在は宅地化が進んで、堀などの遺構はほとんど消滅しています。

1590年の豊臣秀吉の北条征伐時に、浅野長政勢に攻められて落城しています。
寿能城落城後は、浅野勢によって寿能城の南にある大宮宿や付近の村は、略奪や女性には強姦が行われたという記録があります。

戦国期の合戦では民百姓には危害が及ばなく、離れたところから見物していたなんて話をよく聞きます。
戊辰戦争の会津などでも同様に略奪が行われていたために、未だに会津地方では薩長への恨みが残っているなど、日本でもそれなりの占領地や侵攻箇所近隣での悲劇は起こっていたようです。

寿能城の本丸があったとされる寿能公園です。

寿能公園内には城主の潮田資忠の墓があり、これが物見櫓跡と言われています。

公園から見沼用水を渡ると大宮第二公園があり、この辺りに出丸があったようです。

この出丸跡が、寿能城の遺構が最も残っている箇所です。
遊歩道などが整備されているわけではないので、接近して確認することは難しいですが、空堀や土塁のようなものがよく見ると確認できたりします。

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