岩槻城跡(いわつきじょう) 別名 白鶴城

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岩槻城は諸説ありますが、江戸城や川越城を築城した扇谷上杉氏の家宰である太田道灌が築城したと伝えられています。

16世紀の前半には、太田氏が城主として付近を支配していましたが、1567年の現在の千葉県富津市で三船山合戦で当時の城主だった太田氏資が戦死すると後北条氏が直接支配する城となりました。
岩槻城の西側にある寿能城は、岩槻城の支城であったとされています。

豊臣秀吉の北条討伐では、城代の伊達房実が2千人の兵力で籠城しましたが、浅野長吉率いる豊臣勢の大軍に攻撃されてわずか2日で落城しました。

徳川家康の関東移封の際に、高力清長などの譜代の大名が城主として入り江戸の北を守る重要拠点とされていました。
江戸時代には、岩槻藩が置かれ岩槻城は藩庁として機能しましたが、明治時代に入り廃城となりました。

岩槻城は、石垣はほとんど作られず土を持った土塁が中心の城郭でした。
元荒川と湿地・沼を天然の堀とした平山城で、本丸や二の丸・三の丸は沼の中の浮島のような形状でした。
現在は、本丸・二の丸・三の丸周辺の沼は埋め立てられて市街地となっています。
住所に「本丸」と残っています。

現在でも状態がよく保存されている新曲輪、鍛冶曲輪が岩槻城址公園の西南部に残っています。

黒門です。
岩槻城内での位置は不明ですが、木材部分が黒く塗られているため「黒門」と呼ばれています。

門扉両側に部屋がある長屋門形式です。
明治維新後の岩槻城廃城後は、岩槻市役所の通用門などとして移築・転用されて1970年に岩槻城址公園に再度移築されました。

岩槻城の裏門と伝えられていますが岩槻城内での位置は不明です。
薬医門形式で1770年に作られたもののようです。
廃城時に民間の有山氏に払い下げられましたが、昭和55年に岩槻市に寄贈され再度移築されました。

見にくいですが障子堀の跡です。
新曲輪と鍛冶曲輪の間の堀でした。
堀底を障子のように区切り、侵入しにくくする構造です。
後北条氏が築城した城郭、小田原城・山中城などにも見つかっている後北条氏特有の築城技術だと考えられています。

岩槻城址公園のアクセス・駐車場・ランチ

岩槻城址公園は、東武アーバンパークライン(野田線)の岩槻駅から徒歩23分程度です。

駐車場も約300台程度あるので、車で行った方が便利な立地です。

公園敷地内にある「さいたま市民会館いわつき」の中にレストラン大手門が営業しています。

メニューある「豆腐ラーメン」は、第2回・第4回埼玉B級ご当地グルメ王で優勝しています。

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