川越城跡 – 戦国初期の名将太田道灌が築城し、河越夜戦が戦われた城

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川越城は室町時代の1457年に扇谷上杉氏の家宰 太田道灌が武蔵国の拠点として築城し、対立していた古河公方に対する防御拠点としました。
太田道灌が築城した当時は本丸と二の丸が城域だったようです。

厳島の戦い・桶狭間の戦いと合わせて日本三大奇襲呼ばれる河越夜戦の舞台になった場所でもあります。

後北条氏の北条氏康軍と上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の連合軍が戦い、北条軍は約8倍の兵力差があったにもかかわらず、奇襲により勝利しています。

城域は、川越市役所から本丸御殿に隣接する初雁公園付近までありましたが現在は大半は失われています。

川越市役所付近に大手門がありました。

江戸期には、川越藩の藩庁が置かれていました。

川越城は、戦国期には河越城と呼ばれていました。
天守閣はなく、本丸御殿の南西にある富士見櫓が天守代わりになっていました。
富士見櫓は、川越城内で最も高いところにあり三層構造であったようです。

川越城 スタンプ

百名城のスタンプは、本丸御殿入り口の入場券売り場にあります。
スタンプ置き場が設置されているわけでなく、係員に声をかけるとシャチハタ式のスタンプを出してもらえます。

主な遺構は、大手門が川越市役所と本丸の中間地点辺りにある中ノ門堀跡と本丸御殿、本丸御殿から南西に徒歩5分程度の富士見櫓跡くらいです。

他には、川越市街に旧武家屋敷が点在しています。

本丸御殿

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川越城本丸御殿は、1846年に二の丸御殿が焼失したのを受けて建築され1848年に竣工しました。

建築当時は、16棟・1025坪の広さある城主の住居や政務の場所・家老の詰め所などがありました。
明治維新後に、本丸御殿は解体され一部は移築されました。
現在は、玄関と大広間、家老の詰め所が現存しています。

現存する部分は、往時の数分の一の規模ですが、十分見ごたえのある建築物です。

川越藩17万石の格式にふさわしい御殿が造られ、現在の御殿の数倍の規模で建てられていました。

奥の渡り廊下の先に家老詰所に武士の人形があります。
家老詰所は、明治維新後に上福岡市の福田屋に移築されましたが、昭和62年に再度、川越城本丸に移築されています。

富士見櫓跡

本丸御殿から南西に300mほど離れた、埼玉県立川越高校の裏手にある小山が川越城の富士見櫓跡です。

川越城の全体図では、この位置にあった櫓です。

頂上にはちょっとした広場があり、御岳神社が祀られています。
奥に見えるのは川越高校の校舎です。

川越城には、二の丸にあった二重の虎櫓と本丸北に菱櫓と西南隅にここ富士見櫓がありました。

川越城域内で一番の高所にあったため、天守閣の代わりなっていたと推測されています。

櫓跡に上って周りを見渡すと下から見た印象よりも眺望がよく、ここに三層の櫓が建てられていたようなので、名前の通りに江戸期には富士山が眺望できたと想像できます。

中ノ門堀跡

川越城の堀や土塁は、市街地開発でほとんど消失している中で中ノ門付近の堀は保存工事されて、公開されています。
保存工事が行われる前は、藪が生い茂る大きな穴だったようです。

川越城全域の中では、ここに位置していて、追手曲輪と中曲輪をつなぐ門でした。

勾配が本丸側が60度、大手門側が30度と城内深くに入り込みにくい構造になっていたことが分っています。

太田道灌が築城した時の城域は本丸と二の丸くらいでしたが1639年に川越藩主となった松平信綱は川越城を大規模に増築し、中ノ門もその時に造営されました。

中ノ門は、3本の堀と二階建ての櫓門を組み合わせた堅牢な防御施設でした。

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