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大阪城は、石山本願寺があった場所の跡地に建てられた城郭です。
石山本願寺は、明応5年(1496年)に本願寺蓮如が上町台地の北方先端部に御坊を建て、その後本願寺が武装集団になる過程で徐々に要塞化されていきました。
享禄5年(1532年)に山科本願寺が六角定頼らによって攻め滅ぼされると石山本願寺が本願寺の本拠地となりました。
本願寺は、比叡山の延暦寺と並ぶ宗教勢力で、戦国期の宗教組織は現在のようにただお経を唱えているだけではなく、中国との貿易を行っていたり、金融機関としての役割を持っていたり、さらには強い軍事力も持っていました。
織田信長は、金融や貿易などの権限などを奪い骨抜きにするために、石山本願寺を10年かけて下しています。
石山本願寺は、信長と和解して石山本願寺から立ち退き、直後に焼失しています。教如が自ら火を放ったのでは言われています。
大坂城二の丸に、石山本願寺の推定地の石碑がありますが、秀吉による大阪城築城のために当時の石山本願寺の構造などはほぼ分かっていません。
豊臣秀吉が、天下人になると石山本願寺跡地に天生11年(1583年)に大坂城を築城しました。
大阪城は、豊臣秀吉の本拠地と認識されていますが、京都の聚楽第や京都南部の伏見城で政務を取り行っていました。
秀吉死後に関ケ原の戦いの後に、豊臣秀頼は関ケ原の恩賞のために所領が分配され、220万石の大大名から65万石の大名に転落しましたが、大阪城を居城としていました。
徳川家康は、江戸幕府の体制を盤石にするために、慶長19年(1614年)に、無理筋のいちゃもんをつけるような感じで豊臣秀頼の居城である大坂城を攻撃を開始しました。
この戦いは大坂冬の陣と呼ばれ、豊臣秀頼の母親である淀殿が侍女が、徳川方の砲撃によって死んだことにビビって、和議に応じています。一説には、徳川方の兵糧が不足していて籠城を続けていれば、徳川方は徹底を余儀なくされたもと言われています。
和議の条件として、大阪城の二の丸と三の丸が破却され、外堀も埋め立てられて、大阪城は本丸のみのほぼ裸城になりました。
翌年に和議の条件だった豊臣秀頼の大阪からの移封を拒否したことにより大坂夏の陣が起こりました。
堀が埋め立てられているため、豊臣方は籠城戦を諦めて、野戦中心で戦いました。真田信繁の活躍で徳川家康が自刃を覚悟するまで一時は追い詰めましたが、結局は押し返されて、大阪城は落城し、豊臣秀頼や淀殿は自害しました。
豊臣氏滅亡後に、徳川氏が大坂城を再建しました。豊臣氏の大阪城の石垣や堀を破却し、盛土をして造られています。
徳川氏の大坂城は、築城の名人と名高い藤堂高虎が責任者として建築が進められました。
また、城郭の大きさは豊臣時代の4分の1程度に縮小されましたが、天守閣は、高さや床面積を豊臣時代の天守を超える規模で造られました。
この天守閣は、寛文5年(1665年)に落雷により焼失しました。
現在の天守閣は、昭和6年に復興天守として鉄筋コンクリート製で造られました。
豊臣時代の縄張りの上に数メートルの盛土をして工事が行われているため、現存する石垣や櫓などはすべて徳川氏が建造したものであることが分っています。
南外堀です。
大手口と玉造口の間の堀で、石垣の総延長が約2kmで、堀の最大幅は75mあります。
二の丸側に7つの櫓が並んでいましたが、戦災などで焼失し現在は2つのみが現存しています。
写真にあるのは六番櫓です。
大手門です。
右側に見える櫓は千貫櫓です。
枡形門と呼ばれる、四角形に周囲を囲み、高麗門と櫓門の二重構造で、高麗門と櫓門は直角に配置されています。
高い防御力を持つ、防御施設です。
三の丸には、大化の改新後に遷都先とされた難波宮が埋もれていましたが、現在は発掘されて難波宮跡公園となっています。
百名城スタンプは、天守閣1Fインフォーメーションにあります。
特にスタンプ置き場は無く、案内係の人に声をかけるとスタンプとスタンプ台を出してくれます。
真田丸は、1614年に起きた大坂冬の陣の際に真田信繁(幸村)が大阪城の弱点が南部にあると見抜き、それを補うために築いた出丸です。
真田信繁は、真田丸で徳川方の武将 前田利常や藤堂高虎などを翻弄しました。
JR大阪環状線の玉造駅から徒歩で10分程度の大阪明星学園のグランドから心願寺にかけて出丸城があったとされています。
付近の三光神社には、真田信繁の像と大阪城へと繋がっていたとされる真田丸からの抜け穴があります。
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