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五稜郭は、ペリー来航を受けて江戸幕府が蝦夷地(北海道)防衛のために1856年から建造を始めて1864年に竣工し、同年6月に函館奉行が移転し、蝦夷地における政治の中心地をなりました。
伊予藩の武田斐三郎が設計に関わり、15世紀の欧州で考案された稜堡式と呼ばれる、ひし形の防御施設を組み合わせた攻撃側に対して死角がなく攻撃側に対して迎撃可能な構造になっています。
大手門には、半月堡と呼ばれる防御施設が設置されています。
形状は星型の五角形に近く、長野県佐久市にある龍岡城も同様の形状の城郭として建造されています。
五稜郭の入り口は、追手門と裏門の二箇所があります。
五稜郭の直径は約500mで堀の周囲の長さは約1800mです。
五稜郭は戊辰戦争の最終局面である函館戦争の激戦地となりました。
戊辰戦争は、鳥羽伏見の戦いから始まり、甲州勝沼や江戸開城、宇都宮城の攻防戦、会津若松城の戦いなどを経ながら、旧幕府軍は徐々に北に追いやられ当時の最新鋭艦である開陽丸を中心とした艦隊で、五稜郭を占拠し函館奉行所を中心として、新政府軍と対決しました。
新政府側の松前藩を土方歳三らが攻撃し、わずか数時間の戦いで松前城を落城させて、旧幕府軍は蝦夷地を平定しました。
しかし、この戦いで最新鋭艦開陽丸が座礁・沈没しています。
土方歳三は、開陽丸が沈没する様子を見て呆然自失したと言われています。
開陽丸は、オランダが製造した排水量約2590t、全長約72m、幅約13m、高さ約45mフリゲート艦で、蒸気エンジンで約10ノットでの航行が可能でした。
開陽丸は、35問の砲門を装備していて、そのうち18門が16センチクルップ砲でした。
クルップ砲の射程は3900mを誇り、新政府軍の艦船をアウトレンジから攻撃することが可能であったため、開陽丸が健在なら制海権(海上優勢)を維持することが可能であったと予測されるため、函館政権は存続できた可能性もあります。
1868年12月15日に旧幕府軍は榎本武揚を総裁として函館政権が成立しました。
その後、宮古湾海戦で新政府海軍と海戦で勝利した後に、新政府軍の総攻撃が開始されて、1869年4月に松前城が占拠され、函館が主戦場となります。
5月11日に一本木関門付近で土方歳三が銃撃され死亡しています。
土方歳三は、戦争継続強硬派であったため、味方に後ろから撃たれたとも言われています。
石破茂みたいな人はいつも時代でもいるようです。
5月18日に五稜郭にこもる約千名が降伏し、函館戦争は終結しました。
五稜郭の南西に隣接した位置に五稜郭タワーが建っています。
高さは約107mで、五稜郭の全景が一望できます。
2基のエレベーターで展望台に上がれ、入場料は大人が900円です。
営業時間は、
4月21日から10月20日 8:00 – 19:00
10月21日から4月20日 9:00 – 18:00
となっています。
現在の五稜郭タワーは二代目で、初代は1964年に建てられて高さは60mでした。
老朽化などのために2006年に現在のタワーに建て替えられました。
五稜郭の大手門前です。
大手側は、半月堡と呼ばれる馬出的な塁があり二重堀となっています。
半月堡は、5か所とも建設する予定でしたが工事規模が縮小されたため正面の1か所のみとなりました。
函館戦争後に函館奉行所やその付帯建物は、札幌の北海道開発庁の資材とするために解体されました。
1983年ころから、復元のための発掘調査が行われて2006年から着工し、2010年に竣工しました。
五稜郭の石垣は、切込接の布積で、上部には刎ね出しと呼ばれる防御のための迫り出しがあります。
刎ね出しは、武者返しとか忍び返しとも呼ばれる防御施設で上から2番目の石が迫り出して積まれているため、外部から侵入が難しくなる構造です。
五稜郭のスタンプ設置場所は、五稜郭タワーのチケット売り場と、五稜郭内の函館奉行所西側の休憩所「板庫」にあります。
どちらも、自由に押せるようにはなっておらず、係員や店員の方に声をかけてスタンプを出してもらう必要があります。
五稜郭周辺でのランチなら、五稜郭タワー2階の五島軒のカレーや五稜郭タワーのはす向かいにあるハンバーガーショップラッキーピエロ、裏門にある回転寿司函太郎あたりがおススメですね。
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