江戸城外堀の門 – 赤坂見附跡・喰違見附跡・四谷見附跡・虎ノ門・溜池櫓石垣・市ヶ谷見附・牛込見附

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・赤坂見附跡

赤坂見附は、江戸城三十六見附のひとつで神奈川方面への主要街道の大山道の起点です。
大山道は現在は国道246号線となっています。

赤坂見附は、江戸城の他の門と同様に二つの門が垂直に位置して、対角の2辺が石垣に囲まれている枡形門と呼ばれる構造でした。

現在は、門は破却され、石垣も大半が取り壊されています。

西側には弁慶濠が現在も水を湛えながら残っています。

・喰違見附跡

喰違見附は江戸城三十六見附のひとつで、江戸城の見附(城門)は枡形門と呼ばれる、高麗門と渡櫓門が直角に配置され、その対角の2辺が石垣で囲まれている、高い防御力も持つ構造の門がほとんどなのですが、喰違門は、虎口と呼ばれる土塁を前後に配置してその間に門を構えるという、戦国期の城郭によく用いられた構造でした。

喰違門付近は、江戸城の西側で最も高いところに位置していて1636年に江戸城西側の外堀が築かれる前から、砦のような防御拠点として機能していて、その拠点を活用して見附とされたために枡形門を採用しなかったようです。

明治6年に岩倉具視が喰違見附付近で元土佐藩士に襲撃される事件が起きましたが、岩倉具視は命はとりとめています。

ホテルニューオークラのすぐそばに喰違見附跡はあります。
彦根藩井伊家の中屋敷跡にニューオークラは建っています。

喰違見附跡の南には弁慶濠が水を湛えて残っています。

・四谷見附跡

四谷見附は、江戸城三十六見附のひとつで甲州街道へとつながる要衝として、毛利秀就が築きました。

1636年ころに江戸城西側の外堀普請の一環として枡形門として築かれましたが、現在は石垣のほんの一部だけが残っています。
枡形門とは、高麗門と渡櫓門を直角に配置して、その対角に石垣を築いて四角に囲む構造で非常に高い防御力を持つ門でした、江戸期には夕方6時になると閉門されていたと言われています。

四谷見附の南側には真田信之を築いた真田濠がありました
が現在は埋め立てられて、上智大学のグランドとなっています。

・虎ノ門・溜池櫓石垣

地下鉄虎ノ門駅の出口に江戸城外堀展示室があります。
虎ノ門付近の石垣跡と石垣の構造や江戸城についての解説板が掲示してあります。
当時は外堀がありましたが弁慶濠あたりから新橋にかけての外堀は明治時代に埋め立てられたようです。

展示室から外堀通りを渡ったところに溜池櫓の櫓台の石垣を見ることができます。

江戸期にはここに溜池櫓があったようですが、現在は取り壊されています。
外堀の隅櫓は、ここと他には2か所しかなかったようです。

・市ヶ谷見附・牛込見附

江戸城の城域は、すごく広かったので東京の中心部には江戸城の遺跡があちこちにあります。

JR中央線の市ヶ谷駅と飯田橋駅は江戸城の外堀付近に位置していて見附と言われる交通の要衝に置かれた見張り所がありました。

地下鉄市谷駅の構内には、江戸城の石垣が復元保存されています。
この石垣は市ヶ谷門の石垣ではなく、雉子橋の石垣が再現されています。

JR市ヶ谷駅付近にある、石垣跡です。

となりの飯田橋駅付近は牛込見附があった場所で当時の石垣が残っています。

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