箕輪城跡 – 武田信玄の侵攻を幾度も退けた堅城、井伊直正が最後の城主

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箕輪城は、16世紀初頭の永正9年(1512年)に長野氏の長野業尚によって築かれた梯郭式の平山城です。
平成17年に日本百名城の16番に選定されています。

現在の城域は、最後の城主である井伊直正が拡大改修工事を行ったもので、東西500メートル、南北1100メートル、面積が約36ヘクタールと関東でも屈指の規模を誇る城郭です。

箕輪城は城主が次々と変わった城で、築城当時は長野氏の4代の居城でした。
長野氏は、関東管領上杉氏の家臣で長野氏滅亡時は上杉謙信が主君でした。
弘治3年(1557年)から始まった武田氏の上野侵攻を当時の城主長野業正が、侵攻をうまく退けて長野氏の支配を維持しましたが、永禄4年(1561年)に長野業正が死去すると、跡を継いだ長野業盛は、徐々に孤立していき永禄9年(1566年)の武田による総攻撃で、上杉謙信の援軍の到着する前に落城しました。

本丸北側の御前曲輪にある井戸です。
本丸の詰めにあり、落城時の城主長野業盛が自刃した持仏堂があった場所と伝えられています。

武田氏は、箕輪城を上野支配の重要拠点として、有力家臣である甘利昌忠、真田幸隆、内藤昌豊などが城代として置きました。

天正10年(1582年)2月に織田氏の侵攻により武田氏が滅亡すると、織田氏の家臣である滝川一益が箕輪城を接収しました。
同年6月の本能寺の変で織田信長が討たれると、後北条氏が上野に大規模に侵攻し、神流川の戦いで滝川一益を打ち破り、北条氏邦が箕輪城の城主となりました。

天正18年(1590年)に起きた豊臣秀吉の小田原征伐では、箕輪城は上杉景勝・前田利家・真田正幸らの軍勢が押し寄せた際に戦わずに開城しています。

北条氏が滅亡後は、徳川家康が関東移封され徳川四天王の一人である井伊直正が箕輪城12万石をもって城主となりました。
井伊直正は、箕輪城を改修し現在の城郭や復元された郭馬出西虎口門は、井伊直正が城主だった頃のものです。

その後井伊直正は、家康の命で高崎城を築城し、箕輪城から立ち退き、慶長3年(1598年)に箕輪城は廃城となりました。

二の丸の郭馬出西虎口門です。
平成28年11月に復元された門が完成しました。
井伊直正が城主の時に建てられた門です。
城の南から本丸へのルートの重要な拠点で箕輪城の城門の中でも幅5.73m、奥行3.48と最大規模の2階建ての櫓門でした。

同時に本丸西虎口門も復元計画が立案されたのですが、こちらはまだ未着工です。

箕輪城跡のスタンプ

百名城スタンプは箕郷支所の受付に置いてあります。

箕輪城跡の二の丸付近に押印済みの用紙が入っているボックスもあります。

箕輪城跡へのアクセス

箕輪城跡へは車で行くには関越自動車道の前橋インターから20分程度です。
住所は高崎市ですが高崎インターでなく前橋インターがおススメです。
箕輪城跡の駐車場は搦手口の駐車場が広くてトイレもあるので便利です。

箕輪城ふれあい市で御城印がもらえる

毎週日曜日には、箕輪城跡の搦手側の駐車場で箕輪城ふれあい市が開催されています。
開催時間は10:00~14:00(雨天中止)で、長野業正グッズや地元の新鮮野菜の販売や箕輪城の御城印がもらえたりするイベントです。
箕輪城の御城印は、長野家と井伊家の家紋が2種類ずつ計4種類から選べます。

郭馬出西虎口門

箕輪城の郭馬出西虎口門は、大手方面から本丸へと向かうルートの要衝にあり、幅が5.73m、奥行が3.48mと箕輪城内でも最大規模の門であることが分っています。

二ノ丸南に位置する2階建ての櫓門であったと想定されていて平成28年11月に復元工事が完了し公開されています。

井伊直政が城主である時期に建てられて16世紀中に造られた門跡では関東最大級の規模です。

馬出側からの写真です。

平成14年の箕輪城の発掘調査で、礎石が8石すべて残っている良好な状態で確認され、現存する同時期の城門などを参考に郭馬出西虎口門の建物構造を推定し、復元が行われています。

木俣と呼ばれる曲輪からの写真です。
木俣とは、家臣団の居住地だったと言われています。
少なくとも3棟の掘立柱建物があったことがわかっています。

旧下田邸書院・庭園

旧下田邸書院・庭園は、箕輪城跡のスタンプ設置場所の箕郷支所の隣にあります。

箕郷支所とは、高崎市と合併前に箕郷町役場だった場所です。
平成の大合併で2006年に多野郡新町、群馬郡群馬町・倉渕村と一緒に高崎市に編入されています。

旧下田邸は、1566年に武田氏に滅ぼされた長野氏の重臣の下田大膳正勝の子孫が箕輪城落城時も生き残りこの地に土着して築いた屋敷です。

地域の有力者であった下田家は江戸時代には代官に任じられていました。

当時は、かなり広大な屋敷地であったようですが、現在は書院と庭園のみが残り県の重要文化財に指定されています。

庭園は、赤穂浪士四十七士随一の剣客として知られる堀部安兵衛(堀部武庸)が築いたと伝えられています。

箕輪城のスタンプ置き場のすぐそばなのでスタンプを押すついでに覗いてみては。

百名城の一覧ページはこちら

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