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志苔館(しのりだて)は、津軽安東氏が渡島半島を支配するために12人の配下を置いた道南十二館のひとつです。
14世紀後半に志苔館は道南十二館の最東端に造られました。
築城主は津軽安東氏の家臣である小林氏のようです。
函館空港の南側、志海苔漁港の北側に位置しています。
志苔館は、もっとも東に位置する館で他の十二館は宇須岸館(箱館)、茂別館、中野館、脇本館、穏内館、覃部館、大館、禰保田館、原口館、比石館、花沢館とされていますが、所在地などが詳細不明の館もあります。
志苔館は、城というより居館というような規模で形はほぼ長方形で東西が70~80メートル、南北が50~65メートルで面積は約4,100平米です。
土塁と空堀、柵と7棟ほどの建築物があったことが発掘調査で確認されてます。
西側が大手に当たるようで、西側の堀は二重になっています。
松前藩の記録によると志苔館は、1457年に起きたコマシャインの戦いで一度目の落城をしています。
コマシャインの戦いは、ここ志苔館周辺で和人とアイヌ人との諍いでアイヌ人が殺害されたことを機に起こった戦いで志苔館だけでなく道南十二館のうち十館がアイヌ人の攻撃により落城しましたが、武田信広の活躍で和人側が反転攻勢でアイヌ人を制圧して終結しています。
その後、永正9年(1512年)にも、再びアイヌ人との戦いが起こり、志苔館は落城し館主の小林良定が戦死して、志苔館は廃城となりました。
函館空港側から見た志苔館跡です。
土塁と空堀などの遺構がよく保存されていることが分ります。
主郭内です。
建物の柱跡や井戸跡などの場所が分かるように表示されています。
1968年の発掘調査で、志苔館跡の南西約100mで大量の中国銭が発見されています。
中国の宋・明の頃の銅銭が約38万枚発見されていて、1か所から出土した枚数では日本最大級の銅銭でした。
ちなみに日本国内で流通していた通貨・貨幣は安土桃山時代までは、宋王朝や明王朝で作られた銅銭がメインでした。
教科書で書かれている和同開珎などが奈良時代に造られたとされていますが、日本国内ではほとんど流通することはなく、中国から流入した銅銭が主な通貨だったようです。
志苔館跡は、2017年に続百名城の101番に指定されていて、スタンプは敷地内のトイレ前の休憩所にあります。
設置台の中に、シャチハタ式のスタンプが置いてあります。
志苔館跡には、駐車場がありません。
函館駅からバスが出ていて「志海苔」で下車し300m程度です。
函館空港から約1.5km程度なので空港からなら歩いていくことも可能です。
函館空港は旅客の出入り口は北側を向いているので、出口を出て右側に向かって歩いていくと空港の外に出られます。
空港を出て、150m程度でT字路につき当たるので右側に向かいます。
曲がってから200m程度で空港の滑走路の下を通るトンネルが見えてくるのでトンネルをくぐります。
トンネルは300m程度の長さで、歩道はありますが歩道の幅が70cm程度と狭く、手すりがすすや埃などで汚れているため、注意が必要です。
さらに車が通ったり、上を飛行機が通ったりするとトンネル内は轟音が響き渡るため、かなり恐怖を感じる方もいるはずですね。
トンネルをを抜けてから100mでT字路につき当たると、左手に志苔館が見えてきます。
T字路を左に向かい、一本目の路地を右に曲がり150m程度で志苔館跡の入り口に到着します。
志苔館跡の西側、入り口付近に和人殉難慰霊碑・阿伊努帳魂慰霊碑があります。
1457年のコマシャインの戦いで亡くなった和人とアイヌ人の御霊を祀っています。
最近は、ウポポイなどでアイヌ人は北海道の先住民ということを政府が認めてしまっていますが、実際は北海道には縄文人が先住していて12世紀ころに金やモンゴルに圧迫された現ロシアの沿海州の住民が樺太経由で北海道に渡り、現地の縄文人と混血したのがアイヌ人なんです。
なので、アイヌ人が先住民というのは半分本当で半分嘘ですね。
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