武田氏館(躑躅ヶ崎館) – 源氏の名族武田氏の本拠地

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武田氏館は、甲斐源氏の武田氏の居館で躑躅ヶ崎館とも呼ばれています。
武田信玄の父である武田信虎が永正16年(1519年)に石和にあった居館が水害が多発するために、甲府盆地中央に近い相川扇状地に移転したことから始まります。
武田氏館は、信虎・信玄・勝頼の三代70年間にわたり甲斐の領国経営の中心地として機能し、甲斐国の政治・経済の中心として発展しました。
武田氏が滅亡する直前に当主武田勝頼が、本拠地を韮崎市の新府城に移しましたが、武田勝頼が新府城から岩殿城に向かう途中に家臣の小山田信茂が離反したため、勝頼は天目山の自害し、武田家はあっさりと滅亡しました。
武田氏後は一時期織田家家臣の河尻秀隆が武田氏館で政務をとったとされています。(諸説あり)
本能寺の変が起こり、上野・信濃・甲斐の支配を争う天正壬午の乱を経て、徳川氏が甲斐を支配しました。
豊臣秀吉の小田原(北条)征伐後に、徳川氏が後北条氏の旧領に移封となり、豊臣氏の譜代大名の浅野長政・幸長が甲斐に入り、甲府城を築いたのを機に、政治・経済の中心地としての機能が廃されることになりました。

徳川氏が甲斐支配の拠点をしていた時期には、天守があったとされていますが、江戸時代初期の慶長年間に館は破却されたようです。

明治時代に入り、軍神と評されていた武田信玄を祀った神社創建の機運が高まり、大正8年(1919年)に武田氏館跡に社殿が竣工し、武田信玄をご祭神とする武田神社となっています。

武田氏館は、連郭式の平城で主郭・西曲輪・梅翁曲輪・味噌曲輪・御隠居曲輪などから構成されていました。
大手は東側にあり、大手には武田氏独自の築城様式である三日月堀を備えた馬出があったようです。
現在の神社正門は、武田氏館の当時は水堀であったとされています。

武田氏館跡の整備・復元工事

武田氏館の跡に創建された武田神社は、主郭と西曲輪に建てられていました。
主郭東側の大手口や、北側の梅翁曲輪・味噌曲輪・御隠居曲輪などは、破却当時のままとなっていました。
甲府市が、東側の大手虎口や北側の各曲輪を整備・復元工事を行っています。

武田氏館のスタンプ設置場所・御城印

武田氏館は百名城24番目の城跡です。
百名城スタンプは、武田神社拝殿の東側の御朱印所に設置してあります。

百名城スタンプは、御朱印受付の左側の隅に置いてあります。

武田氏館の御城印は、武田氏館跡歴史館(信玄ミュージアム)の有料の特別展示室(入館料300円)に入館すると希望者に配布されます。

武田氏館跡でランチするなら

武田神社の正面入り口から南東側に「蕎麦・カフェ 由布姫」んがあります。
由布姫は、諏訪氏の第19当主諏訪頼重の娘で武田信玄の側室で、武田勝頼の生母です。

信玄肉玉そばを注文してみましたが、どこらへんが信玄なんだかはよく分かりませんでしたね(笑)

武田氏館跡へのアクセス・駐車場

武田氏館跡へは、甲府駅からバスで所要時間10分ほどで到着します。甲府駅の至近に、甲府城があるので百名城スタンプを集めているなら武田氏館と甲府城はセットで回るといいかと思います。

駐車場も用意されています。
蕎麦・カフェ 由布姫の入り口付近に十数台分が無料で駐車できます。

百名城の一覧ページはこちら

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