逆井城(さかさいじょう 別名 飯沼城) – 後北条氏の関東北端の拠点

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逆井城(さかさいじょう)は、茨城県坂東市にある城跡で、小山氏の11代当主である小山義政の五男常宗が、逆井の地を知行として逆井常宗を名乗り1450年頃に築城しとことから始まります。
常宗の孫である常繁は、古河公方に臣従し後北条氏と敵対関係にありました。天文5年(1536年)に北条氏の重臣大道寺駿河守の攻撃により逆井城は落城し、逆井氏は滅亡したとされています。
しかし、1536年は後北条氏の常陸進出の時期と合わないため、逆井常繁が城主であった逆井古城の落城時期ではないとの説が有力です。
関八州古戦録には、天正2年(1574年)に北条氏政が逆井城跡に飯沼城を築かせ、風間・石塚の忍び300名を入れて守らせたという記述があります。

1560年前後の永禄年間の頃には、逆井城は後北条氏の支配地となっていたようで飯沼城と呼ばれていました。
飯沼城は、後北条氏の佐竹・結城・宇都宮などの北関東の反北条勢力の最前線として機能していました。

天正18年(1590年)の豊臣秀吉の北条征伐で、豊臣軍により開城され、徳川家康の関東移封の頃に逆井城は廃城となりました。

逆井城は、飯沼を背にした梯郭式の平城で、本曲輪・二曲輪・三曲輪(外郭)から構成されていたようです。
逆井城址公園は、本曲輪・二曲輪を中心として発掘整備されていて、ほんの一部三曲輪も含まれています。

NHKの大河ドラマ「真田丸」で、逆井城は真田氏の本拠地である「海津城」として外観が使用されていたことでも知られています。

逆井城跡公園の復元・移設された建築物

復元・移設された建築物は、二曲輪の西側に集中しています。

二層櫓

戦国時代末期の城郭の絵図などから復元したもので、豊臣時代や江戸時代に造られた近世の隅櫓ではないものになっています。
6m四方の大きさで、入母屋の望楼に下見板張りの外壁によって、戦国末期の櫓の景観を再現しています。

井楼矢倉(せいろうやぐら)

井楼矢倉は、米を蒸す蒸籠(せいろう)のように、井形に組んだ方形材を積み上げて造られた矢倉です。

井楼矢倉の役割は、
①物見矢倉として敵の情勢を監視する。
②味方の全軍の情勢を把握する。
といった軍事的なものです。

井楼矢倉の役割が発展・大規模化したものが近世城郭の天守閣となりました。

関宿城門

本柱が門の中心線から前方にずれている薬医門と呼ばれる形式の門です。
関宿城は、戦国期には上杉氏と北条氏の間で激しく争奪戦が繰り広げられた城で、江戸末期は久世氏が城主でしたが、明治に入り廃城令で建築物の一部は民間に払い下げられましたが、大半は取り壊されました。
この一部の払い下げれたもののひとつがこの薬医門です。

主殿

逆井城の西の二曲輪にあるこの主殿は、茨城県潮来市にあった大台城跡を発掘調査した際に、出土した主殿遺構を参考にして復元されています。
構成は、正面右側が主室で、左側がその控室になっています。
主室の三間に三間の部屋構成は「九間の間」と言われるもので、室町時代中期の主殿建築の特徴的なものです。

大きさ:間口 11.46m、奥行 5.73m 高さ 6.85m

櫓門と木橋

本曲輪と東二曲輪を繋いでいて、逆井城発掘調査の成果をもとに復元されたものです。

橋の遺構は、礎石・男柱・支柱の柱穴、桂桁支柱の穴が見つかっています。櫓門の遺構は、東西に三個ずつ二列で方形に結べる柱穴と雨後構が見つかっています。

復元にあたっては、遺構保存のために、旧柱位置から西へ1m、北へ50cmずらされています。

鐘堀池

本曲輪と西二曲輪を分ける空堀の中にある池です。
逆井城が後北条氏に攻められ落城する際に、城主逆井常繁の正室(娘という説もあり)が釣鐘をかぶって鐘堀池に飛び込んで自害したという伝説が残っています。
この釣鐘を発掘しようと、何人もの人が池を掘ったために「鐘堀池」という名前がついたそうです。
この池は、どんな日照りでも水が枯れたことがないと言われるほど湧水が豊かです。

他にも、空堀・土塁などの遺構が状態も良く保存されています。

逆井城跡公園へのアクセス

逆井城跡公園は、交通アクセスは滅茶苦茶悪いです。
電車とバスを乗り継いで行けなくもないですが、最寄りのバス停から徒歩30分という感じです。

車で行くことを強くおすすめします。
駐車場は100台程度用意されていて、そんなに人手が集まる場所でもないので車を停める場所が無いなんてことにはならないはずです。

免許がないから車で行けないというなら、関東鉄道常総線の宗道駅が最寄りですが、12kmくらい離れています。

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